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ハムレット 5

ちゃんと理解できたかどうか怪しいもんですが、とりあえず話の大筋はわかった。
そうかー。なるほどー。・・・なんて思いながら藤原ハムレットを鑑賞してたんだけど、頭の片隅ではワクワク感が止まらない。
ベネレットはこれ、どうやるの!?どんなふうに見せてくれるの!?と。
藤原君には大変申し訳ないんだけど、ハムレットを観つつ、他のハムレットに想いを馳せてしまっていた。

だってさ!Twitterで『毎日のように演出の変更がされ、磨きがかかっていく』だの、『その完成形をNTLiveでみられる!』なんて書かれたのをみたら、もうね!
待ち遠しいったらありゃしないね!

・・・本音を言えば、毎日毎日変化していくさまを、演じる人たちの熱気を、生で感じてみたかったけれど。
しょうがない!


そして私のワクワクを更に増大させるローリー・キニア主演の「ハムレット」。
なにこれー。
ほんの3分程の映像なのに、引き込まれるのはなんでだ!





材料は同じはずなのに。
味付け次第でこんなに変わるんだ!
「ハムレット」の魅力ってこういうところにあるんだろうかね。

いやー。観たい。凄く観たい。これ。
でも、DVD等にはならないんだろうね。残念だな~。
なるべく生の舞台に近い状態で観て欲しいってことなんだろうとは思うけど、なんとかならないものか。
私は気に入ったものは何度もみたいタイプなので、余計にそう思ってしまう。


作り手が変わることで、同じ人物のはずなのに別の顔を見せるハムレット。
ベネレットはどんなふう?どんな顔を見せてくれるんだろう、と楽しみでしょうがない・・・んだけど。

だけどさあ!

札幌でもやってよう~・・・。
トウキョウは遠いんだ~・・・。






毎日ファンサービスお疲れ様です。
いつもにこやかだな~。本当にいい人だ!

Tumblrで見た、ベネさんに会ったファン達がとても嬉しそうで、外国の全然知らない人なのに「良かったねえ!」って声をかけたくなる。
ブラジルから父娘で舞台を観にきていた人もいた。
お父さんが「娘はあなたのことが大好きなんだよ」、そして「ブラジルから来たんだ」って言ったらベネさんがすっごく驚いて、その後3人で写真を撮ってた。
シャッターを押したのはベネさん。
女の子が書いた記事からすごく嬉しかったっていうのが感じられたし、3人の写真もとてもいい笑顔で、なんだかこちらも嬉しくなっちゃった。

舞台で力を出し切って疲れているだろうに、ファンに対して気遣いを忘れない。
そういうところが好きだ!と改めて思いました。
うふふふ。

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ハムレット(蜷川幸雄演出・藤原竜也主演)

全体像も知らないのに、細かいことをいつまでもつついていてもしょうがないよなあ、と思って蜷川ハムレットの残りを見た。
しかし・・・難しいよ!「ハムレット」!


 



ハムレットって弱々しい王子様かと思ってたんだけど。
藤原ハムレットは激しい。胸の中に溶岩をたぎらせて、それがバーーンと爆発したりドロドロと流れ出たり。そんなイメージ。
「若い」ってことなんでしょうかねえ。
でも爽やかな若さじゃないの。ドロドロと粘つく。
何しろ舞台を見るのもハムレットも初体験に近いので比べようがないんだけど、この重たい感情表現が日本人的だなーなんて思った。

藤原ハムレットの激しさに気を取られてストーリーが頭から飛んじゃってるところもあるので、福田恒存訳の「ハムレット」を読んで補完。
冒頭でハムレットは父の死と母の裏切りに対して煩悶してる。
文章で読むとやけに母親に固執してるふうに感じてしまうんだけど、舞台のハムレットではあまり気にならなかった。
藤原ハムレットの若さと、清廉な雰囲気からだろうか。
(今年彼が12年ぶりに演じた「ハムレット」のほうは、ガートルードに対してかなり近親相姦的な演出がなされているようだけれど。)
確かにハムレットの年齢から言えば、いつまで母親のことで悩んでるの?って感じだけど、藤原ハムレットは真っ直ぐで、生真面目で、「そうだね、君はそういうことで悩みに悩むタイプだよね」って納得してしまえたんだよね。
もう一つ、見た目からして彼が「少年」だっていうのもあるかも。



復讐劇のお約束として、「復讐をするものは狂気を装い周囲の者を欺く」んだそうだ。
でも、誰かに復讐をしようと思った時点で、その人物は演技ではない本当の「狂気」に捕らわれているのではないのか。
だって、オフィーリアの墓であんなに取り乱したのに、その後のホレイショーやオズリックとの会話だの、試合の前にレアティーズに許しを請う場面だの、「オフィーリアのことは?もういいの?」ってくらい触れられないし、ハムレットの心の動きが分からなくて凄く気持ち悪い!
なので、ハムレットが復讐を果たした時点まで、彼の心は狂気の内に存在していたのではないかと思うのだ。
そして、その狂気に捕らわれながらも、内面の奥深くで自分自身に向き合い、成長していったのでは(ちょっと無理矢理過ぎ・・・?)。
なぜなら、死に直面した時、彼は父が亡くなり母が裏切ったと思い悩んでいた時の彼ではなかったから。
その精神は成長し、国を導くべき自分と言うものを取り戻したのではないのか。
未熟な者が悩み、成長し、どう生きていくか、なにを選択していくべきか、そういったことが描かれているのが「ハムレット」なのか。
きっとそれはこの物語の一側面でしかないとは思うけど。


ハムレット 4' ぎゃー!

ハムレット4で「ハムレットの最後の言葉」と書いたのは間違いでーす!

これ
 ↓
そしてハムレットの最後のセリフに『Let be.』。
Not a whit, we defy augury: there's a special providence in the fall of a sparrow.
If it be now, 'tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all: since no man has aught of what he leaves, what is't to leave betimes?
Let be.

剣の試合の時のセリフだった!
間違ったよ!
私の夏休みの宿題間違いだらけで提出出来ないじゃーん!

なので4は消します。
恥ずかし-!

さらに舞台の構成の変更がされているとの情報が。
これは夏休みのレポート、全滅のおそれがでてきたね。
でも、ちょっとお勉強になったからそれはそれでよしとしよう。



8月21日

蜷川ハムレットの後半を見終わる。
「4」で書いたことも全く違うってわけでもないかな~なんて思った。
なので、ちょっと修正して元に戻しまーす。

ハムレット 4

だんだん「ハムレットのけんきゅう」みたいになってきたな・・・。


思うに「be」ってさ、とんでもなく大きい意味が含まれているんじゃないかな。
「sister」が一言で表せないどころの問題じゃなく。
「be」の中には『神が存在して、世界が成り立ち、その一番端っこに自分』ってくらいのでっかいものが潜んでいるんじゃないか。
時代はずれるが、例えばジャンヌ・ダルクが神の啓示を受けてフランスを勝利に導いた、なんてことが起こるほどに、人々は神と共にあった。
そういう世界観とか時代とか宗教とか、そんなものをひっくるめたものが背景にありきの「be動詞」じゃあないのかしら?と。

イメージ、分かってもらえますかねえ・・・。


なぜそう思ったかというと、レアティーズとの剣の試合の前のセリフ『Let be.』から連想されたから。
「ほっといてくれ」とか「もう言うな」とか訳されているけど、これ『Let it be.』と同じじゃないの?
「神の思し召しのままに」ってことじゃないの?って思ったわけで。  

天使ガブリエルより神の子を身ごもったと告げられたときの聖母マリアの言葉の中に『let it be』。
"And Mary said, "Behold, I am the servant of the Lord; let it be to me according to your word." And the angel departed from her." 

そしてハムレットのセリフに『Let be.』。
Not a whit, we defy augury: there's a special providence in the fall of a sparrow.
If it be now, 'tis not to come; if it be not to come, it will be now; if it be not now, yet it will come: the readiness is all: since no man has aught of what he leaves, what is't to leave betimes?
Let be.

小さな雀の死にも神の意志が働いている。それがいつ自分の身にやってくるかは分からないが、覚悟はしておかねばならない。
すべては神の思し召し。

人が生まれること、死ぬこと。
こればっかりは自分の意思でなんとかなることじゃない。
神の領域だからね。
今、会話の中で『Let it be.』と出て来ても、その意味するところは当時とは深さが違うんじゃないかな。
ああ、自殺がNGっていうのは、「死」は神が決めることだから?人がそこに介入しちゃダメってことかね。




ちょうどシェイクスピアが生きていた頃は、中世から近代へ移り変わるはざまの時代だった。
「自我」というもののとらえ方もそう。今とこの頃とではその意味するところは違う。
中世的自我とは、神とともにあり、神と繋がることで存在する。
それに対し、近代的自我は神から独立した存在を意味する。
東京大学大学院教授 河合祥一郎氏が「ハムレット」を解説した文の中で、「神とともにある中世から近代へと移り変わってゆくなかで、作者であるシェイクスピア自身も揺れ動いていて、熱情(passion)のなかで生きるという中世的な生き方と、理性(reason)で考えて生きるという近代的な生き方のはざまで揺れているのです。」と書いている。

『To be, or not to be』
もしこれが「わたし」の存在を問うものなら、それは「わたしは、神とともにあるわたしなのか、そうではないわたしなのか」という意味か。
シェイクスピアの揺らぎがハムレットの言葉として語られているのではないだろうか。

二つのアイデンティティーに迷いながら、そして最後にハムレットは言う。『Let be.』と。
すべては神の配慮によって起こっているのだ、と結論づける。


よし!夏休みの宿題として提出しようっと。(どこに?)



ハムレット 3



ベネレット版の『To be,or not to be.』。
「生きるべきか 死ぬべきか」の日本語訳ではしっくりこない感じがする。



「ハムレット」の冒頭のセリフ『Who's there ?』は、このお芝居全体を通してのテーマだと言われている。
そこにいるのは誰か。
ここにいる私とは誰なのか。私とはなんなのか。
『Who's there ?』のセリフは、人間のアイデンティティーを問うてくる。


そして『To be,or not to be.』。
日本語訳として一番有名なのが「生きるべきか 死ぬべきか」ってやつ。
でも、これひとつが正解ってわけでもなくて、明治以降いくつかの解釈がこの短い英文になされている。
そのなかで興味を惹かれたのが村里好俊氏が書かれたこちらの文章
  →ハムレットの第四独白 「第一行目」の解釈を巡って
「わたしはわたしなのか わたしではないのか」と、ハムレット自らがアイデンティティーを問う意味と解釈している。

またでたよ。アイデンティティー。「自我」ってやつか。難しいね!

但し、村里氏の説明による「わたしはわたしなのか」と自問しているハムレットは、父親である王を殺害されたと知っているハムレットだ。
「わたしがわたしである」ならば、つまり先王の子ハムレットであるならば、父の復讐を果たさねばならない。

はい、ちょっとネタバレするよ~。

ベネレットの場合は違う。
芝居が始まっての最初のセリフが『To be,or not to be.』から始まる一連の独白なのだ。
ベネレットは、このセリフを言った時点では、クローディアスによって父が殺害されたことを知らない。

・・・って観てきた人が言ってたんだけど。ホント?それを信じて書いちゃってますけど。
続けます。

『To be,or not to be: that is the question: 』と悩んではいても、それは「復讐をすべきかどうか」ではない。

「ハムレット」の冒頭のセリフ『Who's there ?』の場所に『To be,or not to be: that is the question: 』を持ってきた今回のBC版「ハムレット」。
これね、イコールで結べないですかね?
従来の「ハムレット」と同じように、今回のBC版「ハムレット」も「人間とはなにか」とお芝居の冒頭で主役自らに語らせているのではないか、と思ったんですけども。

さあどうだ-。どうなんだー。
でも日本語としてどう訳するのがベストかまでは・・・分からんです。





この衣装かわいいなあ。
公式で出してる画像見た時、「若いなー」って思った。若々しい青年って感じ。フォトショで修正入れてるのかと思ったくらい。
あー、ロンドン行きたい。




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